実は百数十年の歴史しかないといふ日本の皇室 万世一系(笑)

世界遺産候補の「古墳」、ただの「塚」だった

大阪府などが世界文化遺産登録を目指す「百舌鳥(もず)・古市古墳群」(4世紀後半~6世紀前半)の構成資産候補とされていた堺市内の古墳2基が、中世以降に土を盛って築かれた塚であることが、堺市教委の調査で分かった。
2基は候補から除外されたが、同古墳群では、ほかにも調査が必要な古墳が多く、国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)への正式推薦までに、さらに絞り込まれそうだ。
除外された2基は聖塚古墳と、南西約500メートルの舞台塚古墳。
府などは2007年、この2基を遺産の構成資産候補に含めて文化庁に提案。しかし09年度に市教委が初めて聖塚古墳を発掘したところ、墳丘とされていた部分の最下層で江戸時代の磁器が出土し、18世紀以降の築造と判明。舞台塚古墳でも13世紀頃とみられる土器が見つかり、市教委は、古墳の可能性が極めて低いと判断した。
(2012年1月27日03時06分 読売新聞)

古代の皇族の墓は、ほとんどが幕末まで、誰の墓がどこにあるのか分からなくなっていた現在の陵墓は、幕末から明治初期にかけて文献や伝承などを手掛かりに、改めて位置や被葬者を指定したもので、考古学や歴史学の調査・研究が進むにつれ、「指定は誤りが多く、見直すべきだ」との批判が強まっている。
ただ、誉田御陵山古墳については少し様子が違う。誉田八幡宮の存在から、1000年以上前から「応神陵」と認識されていたとみられている。古墳が、これほど古くから特定の被葬者と結びつけられて現代まで伝わっている例は珍しい。
では、研究者の見方はどうか。「そもそも応神天皇が実在したのか疑問だ」とする声がある一方、「これほど古くから『応神陵』とされているのだから本人の墓だろう」との見方もあり、議論が続いている。
陵墓への立ち入りが許可された祭礼は九州にも1例あるが、こちらは被葬者が指定されていない「陵墓参考地」。天皇陵への立ち入りという特別扱いが誉田八幡宮にのみ、認められているのはなぜだろうか。
実は江戸時代まで墳丘と周濠の間には橋が架かり、神輿は後円部の頂上にあった御堂まで渡御していた。江戸末期の神仏分離で橋や御堂は取り壊され、神輿が墳丘に渡ることはなくなったが、こうした史実に加えて「永く応神陵を守護してきた歴史的経緯もあり、堤の上までの渡御を認めている」と宮内庁陵墓課は説明する。
ただ、周囲は最近何かと騒がしい。今年2月、考古学などの研究者が、宮内庁から初めて同古墳への立ち入り調査を許された。その範囲は渡御の神事と同じく堤の上に制限され、墳丘へ渡ることは認められなかった。
同古墳を含む百舌鳥・古市古墳群が昨年、世界遺産の暫定リスト入りを果たしたこともあり、文化財保護法の適用外とされている陵墓のさらなる公開や、国史跡への指定を求める声は高まる一方だ。
http://www.nikkei.com/life/culture/article/g=96958A90889DE1E6EAE2E2E0E1E2E3E6E2EBE0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;df=2;p=9694E0E5E3E0E0E2E3E2EBE3E7E5










万世一系なんてバテレンポチどもによるでっちあげですよ。(爆w

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