吉田神道と「イ主吉会」とか「イの名川会」とか




と更なるウンコきぼんぬといふ思いをいただきましたので・・・(爆w






に補足しておきますね。(w






← 指上申一札之事
神道裁許状 →
この写真でははっきり分かりませんが、右側は、元文2年(1737)8月16日付の神道裁許状という、神主が跡目を継ぐときに吉田神道の管領から頂いた書状です。ありふれた古文書のひとつですが、わたしたちの町にとってはなかなか面白い文書なのです。一行目に「遠江国榛原郡住吉村」と書かれています。

この「住吉村」というのが問題なのです。当地区は「住吉」で、その地名は氏神「住吉大明神(片岡神社祭神)」にちなむものだと思われます。しかし、江戸期の古文書によれば、「住吉村」という村名の表示はなく、もっぱら「下吉田村」と称していたようです。明治以降、村々が合併して吉田村となったときも、ここは「吉田村吉田」とされました。そして「住吉」という地名が公式のものとなるのは、昭和24年の町制施行の後、それまでの「吉田区」が「住吉区」とされるまで待たなければなりませんでした。ところが、地元では明治のころからもずっと「住吉海岸」「住吉交番所」「住吉劇場」「住吉尋常小学校」などといたるところで「住吉」を名乗ってまいりました。わたしたちの村の名前にはそういう歴史があります。
そこで、この神道裁許状の「住吉村」が問題となるのです。さて、左側は「指上申一札之事」という文書です。これは右側の文書の主の松浦伊賀守清春の子が、37年後に跡目を継ぐことになって安永3年(1774)という年に申請書をしたためました。それがこの文書です。
後半部に、『祖先代々受けてきた許状には、村名が「下吉田村」となっているが、父が頂いた許状には「住吉村」とある。たしかに近郷近在では、(われわれの村を)住吉村と称しているが、公儀へ差し出す書状などはすべて「下吉田村」となっているから、わたしへの許状にも「下吉田村」と記していただきたい。』という意味のことが書かれています。 村人や近在の人々は、「住吉村」(「住吉大明神をまつる村の衆」という意味か)と名乗ったり呼んだりするけれども、公式村名はあくまで「下吉田村」だったようです。これは、そのような事情がわかる2枚の古文書というわけです。 なお、この他に寛保元年(1741)に松浦左京(清春と同一人か)が書き残した「年々正月お宮の儀式」という文書があり、その表紙にも「住吉村」とあって、この時代、1700年代半ば頃は、とくに『住吉村』という名前が一般的だったのかもしれません。 
ついでのことですが、裁許状のある「伊賀守」という称号は、当時神道界を支配していた吉田神道が、裁許状などに権威をもたせるために徳川幕府に取り入り、官名を与えることを許された結果与えられたものです。武士の官名とは別種のもので、「吉田官」などといわれているものです




言霊を表わす稲穂(イの名(な)のキに恵(ほ))を献じて




、、、(w

そもそも・・・


なわけで、日本のんぼでが全国で大々的に収穫されるようになったのはそんなに昔からじゃないんですよね・・・(爆w

おまけ










、、、(w

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