世田谷一家殺害事件の懸賞金


懸賞金300万円じゃ割に合わないかもしれんね。(爆w

■宮沢みきおさん

「みきお」さんは1956年7月、東京都板橋区で長男として生まれた。都立戸山高校を経て、東京大学農学部林学科に入学。大学では森林風致計画学を専攻し、建造物が風景に与える影響などを研究した。東大農学部出身という理由で、捜査本部内では当初、学生運動との関係が囁かれ、公安当局による内偵捜査も行われたが、全く無関係と判明。
「みきお」さんは在学中、「SF・アニメ研究会」というサークルに所属し、人形アニメに熱中。「アニメ好きのモ明るいオタクモで、芸術からスポーツまで薀蓄があった。ワンダーフォーゲル部に所属して、トレーニングに励み、ハイキングを楽しむなど、決して暗い男ではなかった」との言がある(高校時代の友人)。一緒に人形制作に当たったスタッフの一人も「柔軟な思考を持った人で、作業でも機転が利いて、大助かりだった」と話しており、恨みを買うようなエピソードは出てこない。
79年には、NHKの人形劇『三国志』の人形制作で知られる人形美術家の川本喜八郎氏の助手として、人形アニメ映画『火宅』や『蓮如とその母』の撮影を手伝った。
故・手塚治虫氏のファンで、日本アニメーション協会に所属。その趣味が高じて、82年の大学卒業後には 、都市研究所の契約社員を経て、アニメの制作スタッフとなり、編集プロダクションを設立した。
86年12月、自己啓発セミナーで知り合った泰子さんと結婚。87年、米国大手企業コンサルタント会社の日本支社に入り、シニアコンサルタントの肩書で大手プロバイダ「ニフティ」や富士銀行(現・みずほ銀行)などのCIブロジェクト(イメージ確立戦略)の中心的メンバーとして活躍。91年には、群馬県水上町が「ふるさと創生」の1億円を投じて話題になった町のシンボルマーク製作にも関わった。
また、自ら「デジタル人間」と称し、96年には共著ながら、『インターネットでわかったこと・できたこと』(技術評論社)を出版するなど、多彩な才能を発揮。著書の中で埼玉県内でのニュータウン建設の仕事に触れ、「新しい街の名前をつくることから始まるタウン・アイデンティティーの開発、そして世の中にどう知らせ、どうイメージをつくるか計画し、プロデュースしています」と自己紹介し、電子メールの宣伝効果を紹介している。
97年3月に同社を退職し、同年7月に同業他社に転職。1年後には英国の大手経営コンサルタント会社の日本支社に移籍し、同じCI部門のリーダーに就任した。一番新しい仕事は全日空の空港ラウンジのイメージチェンジ戦略だった。
一緒に仕事をした仲間たちは「真面目で年齢の割には純粋。仕事熱心で顧客の信頼も厚かったが、家族思いで仕事を趣味とみているところがあり、アニメ関係のイベント参加や子供の授業参観を理由に堂々と有給休暇を取る人だった」と口を揃える。実際、2000年8月には「短時間にメッセージを込められるアニメーションの良さを広げたい」と、広島国際アニメーションフェスティバルの運営まで行うほどであった。休日には深夜まで1階の部屋で一人で趣味のアニメーションのビデオを見たり、映画の構想を練ったりする習慣があった。
http://www.tanteifile.com/dragnet/mikaiketsu/jiken/001_050/011_2000_12_30/index2.html


■宮沢泰子さん

一方、泰子さんは1959年9月、東京都大田区で二女として生まれた。
81年に、東洋英和女学院短大を卒業後、資生堂に入社。宣伝部に所属した。結婚した後の88年に家事に専念するために退職。同僚の評判は「明るく快活で感じのいい女性。職場では紅一点として人気があった」と上々だ。
泰子さんは退職後に塾教師の資格を取り、89年から東急目蒲線の奥沢駅前で姉と共に塾を開設。90年12月からは毎週月・木曜日の2回、自宅1階で「公文教育研究会・祖師谷公園教室」を開き、小学生を中心に4歳児から高校1年生まで国語、算数、英語を教えていた。
http://www.tanteifile.com/dragnet/mikaiketsu/jiken/001_050/011_2000_12_30/index2.html


現場となった世田谷区上祖師谷の自宅は90年5月、宮沢さん夫婦が泰子さんの母親や姉夫婦と共同約1億5千万で購入した中古住宅。多摩川の支流・仙川(幅約10メートル)沿いで、都立祖師谷公園に囲まれている。公園の拡張整備が1991年から本格化し、20軒あった近所の家は、次々と移転。宮沢さん方も、公園の拡張計画区域に入っているため、周囲は立ち退き後の空き地が点在し、一家も小学校の近くに引っ越す予定だった。東隣のアパートも昨年夏に取り壊され、宮沢さん方のほかには、2軒があるだけで夜間は周囲が真っ暗になる。購入時は平屋だったが、その後、約2700万円かけて3階建てに増改築した。壁一つ隔てた隣家には当初、泰子さんの母親と姉夫婦と長男の計四人が同居していたが、姉一家が1992年1月、事業のため英国に移住。その後は英国と日本を行ったり来たりし、留守宅には母親が一人で暮らしていた。2000年4月、姉一家は長男が中学に入るのを機に、夫だけ残して8年ぶりに帰国。夫も事件の1週間前の12月24日に一時帰国し、事件当夜は一家が揃っていた。
注連縄の用意も整った2000年12月30日23時30分頃。惨劇の幕はあがった。




酒井法子 資生堂

とか

site:tokumei10.blogspot.com 資生堂 宣伝部

とかでぐぐっちゃダメだぞ。絶対に!(爆w

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